当部の紹介・about

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▲駿河台校舎4階体育館 この体育館にはバスケット部の部室側に天井の低いところがあり、試合には作戦上ひと工夫必要だった。
 
▲1932年 アメリカ遠征の際バスケットの創始者ネイ・スミス氏にコーチを受ける。
明治大学バスケットボール部物語
 バスケットの誕生と部創設時

 バスケットは、今から110年前の1891(明治24)年に、冬季間、屋内でできるボールスポーツとして、米国で生まれ、我が国には大正初期、YMCAが中心となって普及した。

当部の創設者妹尾堅吉(昭和2年卒)は、当時を次のように記述している。
「その頃、YMCAでバスケットをやっているという話を聞いて、あるとき、陸上部の2、3人の連中と、いっしょに、その試合を見にいったんですが、とにかくそれが非常におもしろかったんですよ。こりやーおもしろい、陸上部にいても、バスケットもやろうじゃないか」

大正13年、妹尾など一部の陸上部員が中心となり、YMCAでプレーしていた学生を勧誘して10人ほどでバスケット倶楽部がスタートした。
そして、すでに運動部として活動していた立、早、商(現一ツ橋大学)などのリーグに加盟するため、大学の認可を得て、大正14年6月、学友会籠球部として発足した。

▲学校に上申した籠球部趣意書の原本写し(大正14年5月5日)

妹尾堅吉は、昭和2年卒業後、平成元年までの65年間、明治大学バスケットボール部のOB会長として活躍、以降も終身名誉会長を務めた。また、昭和5年には日本バスケット協会の創立にも参加した。戦後、妹尾を支えたのは、大室富彌(昭和13年卒、二代目のOB会長)で、両人とも、部を創り、育て、支え、そして、部を愛したOBであった。妹尾が、昭和50年1月、初の日本一に輝いたとき、「50年間、これを追い求めてきたんですよ」と目がしらをぬ ぐいながら、新聞記者に語る姿は、今も目にやきついている。

創部時に加盟したリーグは、立、早、商、中、東、それに明大の六校で、以降、新加盟校を加えながら、昭和18年、スポーツ禁止になるまで続けられた。 当部は、この間、昭和11年に予科が高専大会で優勝した以外、目立った戦績もなく、リーグ戦、オールジャパンは立、早、商、東が交互にトップとして君臨しており、明治大学は一度も美酒を味わうことができなかった。創部当初の試合会場は神宮の相撲場に板を敷いて行われ、普段の練習は場所の確保に大変苦労した。本郷中学や千代田女学院の屋外コートを借りて、なんとかやりくりしていたが、幸いにも、一部員のつてで、「研究社」の空地を借りることができ、部員が石ころ拾いやローラ曳きをしながら、自前のコートとして造りあげた。やがて、昭和4年、駿河台校舎四階に体育館が竣工、昭和30年に和泉体育館竣工に移るまでは、ここが練習の本拠地となっていた。

現在、当部は、国外との定期戦で海外遠征の機会が多いが、そのさきがけとも云うべき、初の米国遠征を、昭和7年に実施している。試合内容などは不明だが、このときバスケットの考案者、ジエームス・ネイ・スミス博士から直接指導をうけたことが、記録にのこされている。

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