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| ▲昭和51年、インカレ優勝 対法大、於国立代々木第二体育館(当部としては現時点での最後のインカレ優勝) |
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| ▲昭和50年、オールジャパン優勝の瞬間、対住友金属、於国立代々木第二体育館 |
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▲韓国高麗大学との第34回定期戦(平成14年5月19日)
於 明大和泉キャンパス体育館 |
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昭和35年のインカレ初優勝は創部35年目の大きなエポックであった。
インカレ優勝後、大室監督(昭和13年卒)は次のように述べている。
「大きな大会で一度も優勝したことがない。過去何回かチャンスがあった。たとえば、高橋実の時代(昭和23年)陣容のそろった昭和30年代。だが、高橋のときは2位
にしかなれなかった。しかし、もう大丈夫、この優勝で明大も全国制覇の経験ができたのだ」
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▲昭和35年12月 第12回インカレ初優勝表彰式
前列右端は志賀主将 於名古屋金山体育舘 |
どこの大学でも同じであるが、毎年、卒業で選手が入替わるチームにとって、常時、チーム力を維持することは容易なことではなかった。
そのなかで、当部は、昭和35年のインカレ初優勝以来、昭和38〜39年の連勝、45〜47年の三連勝、49〜51年の三連勝の記録は、刮目すべきものとして、バスケット界で高く評価された。
当部が、昭和30年代の初めから、約20年間トップの地位を維持し得たのは、昭和28年に一部復帰後、年を追って、優秀な人材が多数入学し、1・2軍編成のなかでチーム内の競り合いが全体のレベルアップに結びついたことや、昭和31年、学校の配慮で、新しい合宿所ができたことなども強いチームづくりにつながった。このような年々の蓄積の結果
が、昭和50年の天皇杯栄冠であり、なによりも、12年振りに大学が実業団を撃破したことの価値は大きかった。
この実業団各チームには、当部OBが多く活躍していたため、先輩の胸を借りる形であったが、それを見事に打ち負かした結果となった。
なお、戦後、オールジャパンで大学が勝ったのは7回で、明太が大学チームとしては最後となっている。
昭和49年度(昭和50年1月)
| オールジャパン成績 |
| 1回戦 |
明大 76 |
− |
46 トヨタ自動車 |
| 2回戦 |
明大 71 |
− |
62 日本鋼管 |
| 決勝リーグ |
明大 65 |
− |
55 松下電器 |
| 決勝リーグ |
明大 70 |
− |
53 日本鉱業 |
| 決勝リーグ |
明大 70 |
− |
66 住友金属 |
| オールジャパン優勝メンバー |
部長:菅井幸夫、監督:畑中悌二
コーチ:児玉 敏
主将:山本浩二、主務:佐々木誠 |
| 山本 浩二 |
4年 |
衛藤 文俊 |
2年 |
| 小玉一人 |
4年 |
福本 一哉 |
2年 |
| 下田 哲司 |
4年 |
河内 敏光 |
2年 |
| 渡辺 徹 |
4年 |
北原 憲彦 |
2年 |
| 平山 陽介 |
3年 |
加藤 伸樹 |
1年 |
| 相川 断 |
3年 |
浜田 寿水 |
1年 |
当部は、このオールジャパン直前に16日間のハワイ遠征を実施している。しかし、本場の大型チームとの試合は、無謀との批判もあったが、実業団コンプンッタスを払いのける効果
があった。
畑中悌二監督(昭和31年卒)は試合後、次のように述べている。
「実業団ばかりの優勝争いで、全日本は12年間も変わりばえしなかった。何とか、学生が刺戦してやりたいと思っていたんです。今度の天皇杯は、明大の名誉だけでなく、日本のバスケットによい流れをつくったでしょう」
オールジャパン直前にハワイ遠征したのは実は定期戦によるものであって、すでに、数年前から、海外の大学チームとの交流が進められていた。昭和43年にスタートした韓国高麗大学との定期戦は、毎年、相互に交流し、本年は東京で第34回定期戦を行った(写
真、左一番下)。
昭和37年からスタートしたハワイ大学との定期戦は4年毎に1回相互に交流していたが、ハワイ大学側の事情もあって、今は中断している。
これらの交流は、単なる技術面だけでなく、将来の社会人としての幅広い、国際感覚の醸成に大いに役立ったものと理解している。
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